福田章二は日比谷高校卒。東大在学中に1958年(昭和33年)『喪失』で第3回中央公論新人賞を受賞している事が分かった。選考委員の伊籐整、武田泰淳、三島由紀夫に誉められたようだ。
東大の教養学部文科二類に入学したが、文学部へ進学せず法学部へ進み、政治学科を卒業している。恩師は政治学者の丸山真男だ。当時、日本を代表する知識階層の中枢グループに所属していたようだ。
10年間の文学活動の中断後、1969年、庄司薫のペンネームで『赤頭巾ちゃん気をつけて』を発表した。
薫くんに魅了された私は、結局2浪し、大学紛争後に新設された私立歯科大学へ何とか入学した。大紛争を起こした大学だった。二度と紛争は起こさせないと学生管理は厳格で徹底していた。学年が進むにつれ、何人かが退学させられ、何人かが自殺した。私を含め誰も大学に対し抗議に立ち上がらなかった。私は情けない男だった。
「馬鹿ばかしさのまっただ中で犬死しないための方法論序説」を、私は薫くんから学んだ。
落ちこぼれで怠け者でさぼりのクズあつかいされていたが、私はやわらかな知性を育てるのはどうすればいいのか、
いつも考えていた。
私はぐずぐずと留年を繰り返し、同級生よりずっと遅れてようやく卒業した。その頃には薫くんに頼らなくても何とかやっていけるようになっていた。青春の迷路から抜け出したのかもしれない。
1969年11月に2作目『さよなら怪傑黒頭巾』。1971年2月に3作目『白鳥の歌なんか聞こえない』。同年12月にエッセイ『狼なんかこわくない』。1973年6月に『バクの飼い主を目指して』と庄司薫は順調に小説とエッセイの単行本を発表していた。しかし,4作目『ぼくの大好きな青髭』は難航したようだ。中央公論の連載が2年におよび、単行本の出版は1977年7月になった。そして、1978年11月のエッセイ『ぼくが猫語を話せるわけ』を最後に、文学活動を中断したまま現在に至っている。
一昨年、新たに新潮文庫から薫くんシリーズ4部作が出版された。「あわや半世紀のあとがき」で薫くん(薫じいさんが正確な表現かもしれない)久しぶりの文章が載っていた。お元気そうで何よりと思った。
薫くんがいない間に村上春樹さんが登場した。庄司薫文学のバトンは村上春樹が受け取ったのではと、私は時々思っている。
以上の文章の中の「私」を「ぼく」に入れ替えると、薫くんの文体になる。薫病原菌の感染力の強さだろう。
まったく、まいった、まいった。