院長コラム › 漱石と日露戦争

 極東の地で日本とロシアが戦争に迷いこもうとしていた。

ロンドン留学中の夏目漱石は毎朝現地の新聞を読んでいた。当時のロンドン市民と同じレベルの国際情勢の情報をえていたことになる。

1990年9月横浜を出航しロンドン到着までの約2ヶ月間に各々の寄港地での体験と新聞論調をフィードバックさせたと思われる。

1901年1月3日、タイムズ紙に北京特派員ジョージ・モリソンの「ロシアと中国 満州の協定」の記事が載った。中国をめぐる日本と英国にとって共通の敵はロシア、あるいは敵の敵は味方という認識で日英は一致したようだ。以降、日英同盟が急速に進み、同時に、日露戦争へのカウントダウンが始まった。

1901年3月7日、漱石の下宿先にベルリン留学中の立花銑三郎から手紙が届いた。漱石の学生時代からの友人だ。不運にも病気になり帰国することになり,船がロンドンに寄港するとのことだった。アルバート埠頭に停泊した常陸丸の立花氏を漱石は見舞っている。

そのときの様子を立花氏はベルリン留学中の芳賀矢一へ手紙を出している。その一節「戦争で 日本負けよと 夏目言ひ」留学中の漱石らしさがよく現れている。立花氏は帰国途中、残念ながらなくなられた。

1902年1月30日、日英同盟調印。

1904年2月10日、日露戦争開戦。