1945年(昭和20年)8月30日、厚木海軍飛行場に4発エンジンのダグラスC-54が着陸した。銀色の機体のドアが開き、米陸軍の軍服姿の長身の男が現れた。コーンパイプをくわえ、レイバンの濃い緑色のサングラスをしている。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーだ。周囲を睥睨し、コーンパイプを右手で口からはずしタラップをゆっくりと降り、日本の地に両足を着けた。サングラス越しに日本の風景はどう映ったのだろうか。本土決戦より敗戦を選択した日本の社会はどう映ったのだろうか…。
敗戦後、連合国軍の日本占領は1945年9月2日戦艦ミズーリでの降伏文書調印から1952年4月28日サンフランシスコ講和条約調印に至るまでの約7年間におよんだ。 占領期間中はマッカーサーをトップとするGHQの間接統治が行われた。GHQは命令を下し、日本政府はそれに対応して「戦後改革」を行った。戦前からの大日本帝国の意識を引きずる人たちにとっては対米従属の屈辱と感じただろうが、旧来の権威が崩壊し社会秩序、社会序列が混乱した時代では、上昇志向が強く野心ある人たちにとってはチャンス到来だったようだ。あらゆる業界で人々が入れ替わった。歯科の業界においても例外ではなかった。
GHQの公衆衛生福祉局局長サムズ准将の下に歯科課長リジレー中佐がいた。矢継ぎ早の命令を下しその都度、厚生省、歯科医師会は対応に忙殺された。それらの仕事を手伝った日本側スタッフの中に、近い将来GHQが去り日本が独立を果たした時、歯科の未来を政治に賭けようと熱い志を持った人物が出現したとしても何の不思議もない。
そのような人物の1人が林了氏だった。東洋歯科専門学校の創始者佐藤運雄の右腕として日大歯学部教授をしていた。
1950年(昭和25年)第2回参院選に立候補した。その時の支援組織が日本歯科医師連盟の始まりとされている。しかし、落選。同年6月22日に支援組織は解散している。1951年(昭和26年)4月6日再び日歯連盟を設立し、1953年(昭和28年)第3回参院選に再び林氏は立候補した。今度は当選するが、同年8月に狭心症のため急死した。翌年再度日歯連盟は解散している。一個人を支援するための組織ではなく、自立した政治団体を作る模索が続いた。
1954年(昭和29年)12月8日、3度目の日歯連盟が設立された。保守合同による55年体制が始まろうとしていた。自由民主党の傘下で職域政治団体と位置付けられた。
1994年(平成6年)、日本歯科医師政治連盟の名称を日本歯科医師連盟と改名した。「政治」を消した。細川連立政権の頃だ。55年体制が崩れ、自民単独出の政権維持が困難だった時代だ。日歯連盟がこれまでの「永田町政治」の下請けからの脱却を意図したものかと私は思っていたが、残念ながら、その後の連盟訴訟、1億円闇献金事件、今回の迂回献金事件と不祥事が続いている。
歯科医師にとって政治とは何かが問われている。集金と集票だけが政治ではないはずだ。
戦後、立候補した林氏の熱い志、挫折したとはいえ、医科歯科格差、制度差別の是正をあきらめてはならない・。